「深みに乗り出せ」  02−11−10
                   ルカ5:1〜11
 <漁師たちは、船から上がって網を洗っていた。>
その時、漁師たちは虚しさに囚われていました。夜通し、苦労して
漁をしたのに何も取れなかったのです。何の収穫もないまま、
後片付けの労働をしていました。充実感などありません。
余裕もありません。
 彼らの近くに、主イエスがおいでになります。そこに主の言葉を
聞こうとする群集たちも押し寄せてきました。
 しかし、漁師たちは、主の言葉を聞こうとする元気もなく、
ただ網を洗っていたのでした。

 主イエスは、漁師シモンに舟に乗せてくれるようにと頼み、
舟の上から群集に話をされました。話が終わると、虚しさに囚われて
いたシモンに、<沖にこぎ出して網を降ろし漁をしなさい>と
おっしゃいました。
 沖(「深み」とも訳される)は、漁師の岸辺での生活を成り立たせる
場所です。深みでの収穫が、仕事や日常の生活すべてを支えて
います。人間を根底のところで支えている深みという場所があるの
です。その深みでの収穫次第で、岸辺での生活が充実したり、
虚しくなったりするのです。主イエスは、そんな深みを指し示され
ました。そこにこぎ出し、収穫を得なさいとおっしゃるのでした。

 私たちは、一体どんな深みでの収穫に支えられているでしょうか。
この「深み」(バソス)という言葉と語源を同じくする言葉に「洗礼」
(バプティゾー)という言葉があります。
洗礼もまた、人の力の及ばない、神秘的な深みでの出来事です。
そして、洗礼で得たものが私たちの生活を根底から支え、成り立た
せているのです。
 では、何を得たというのでしょうか。
それはキリストに結ばれた新しい命です。これは、どんなに岸辺で
誠実に過ごしていたとしても、深みに乗り出すことなしに、決して
手にすることのできないことです。

私たちは、深みに乗り出せとおっしゃる主に従ったことで、
思いもよらない大きな恵みの収穫を得ました。
それ故に、虚しさではなく、喜びと感謝を持って岸辺での
生活をすることができるようになったのです。